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2005/10/30

oriental lily

仕事帰りに赤いオリエンタルゆりを買った。

フリーマーケットで映画ビッグウェンズデーのパンフレットを購入。プレゼントしようと考えて。名案じゃないかと思っている。

2005/10/29

non title

とても気持ちが重いまま一日が終わる。考えることを放棄して、放棄するために一心不乱に本を読んだ。何をどう書いていいのかわからない。今夜はとにかく本の世界に逃げることにしよう。

2005/10/25

a slow day

早起きして東京へ出張。東京入管をはじめ3ヶ所を訪問した。緊張と懸命さで夕方にはヘトヘトになったが、有意義な出張だったと思う。ある大学の留学生担当の女性職員の情熱的で前向きな仕事内容や、惜しみなく初めて会った私たちに話してくれる人間性に惹かれてしまう。また、次に訪問した大学も、自身のポリシーを貫く様がなんともスカッとしていい。話を伺ってみて、これからやるべきことが山積みであることが分かったことは言うまでもないが、他大学を真似るというのでなく、うちの大学らしさを出しながら、それでもやるべきことはしっかりやっていかなければならないと感じた。最後の訪問を終えたのがもう6時近かっただろうか。最後の20分くらいは集中力がなくなってきてしまったが、我が大学の先生が一緒だったので、そういう点では上の立場の人がいるのといないのとでは気分的に違ってくるなぁと思った。そういえば、ずっと矢面に立たされることが多くて、こういう安心感のある場面に浸ったのは久しぶりである。訪問後にちょっと飲んで、そのとき、先生にバラッドとバラードは違うのだという指摘を受ける。帰宅したのは10時半すぎ。収穫がありすぎて、オーバーフロー気味。一日が3日分にも感じられるような一日。

2005/10/19

ballade

通勤途中で聞いているFMで、今週はバラード特集をしている。題して「秋バラード」。以前はこの季節にバラードなんて・・・しんみりしすぎちゃうな、なんて考えがちだった私であるが、実際ラジオから流れるスローテンポで詩をしみじみと味わえるバラードが、秋の深まりに重なって心を穏やかにしてくれるような気がする。

バラードで好きななのは何?と聞かれたら、

ダイアナ・ロス If We Hold On Together

ヴァネッサ・ウィリアムス Alfie 

エルトン・ジョン Your Song

が思いつくもの。

今日流れていたドリカムの「すき」もいい。

話が変わるが、許容範囲は狭くないほうだと思う私だが、どうしても許せないことのひとつに、道にゴミを投げ捨てる、というものがある。先ほど帰宅途中で信号待ちしていたら、前の車の助手席のドアが不意に開くので、何だろう?と見ていると、なんと、大きなゴミを歩道に投げ捨てているのである。見るとそれはマクドナルドの膨らんだ紙袋であった。こんな行為が許されるのであろうか。びっくりして、あっけに取られた直後に怒りがこみ上げてくる。こっちはレジでもらう不要なレシートですら、捨てるゴミ箱を探しさまようというのに、人前で堂々とそういことをやってのける神経の太さには、同じ日本人、いや人間として情けなくなってくる。その車は真新しい白のステップワゴンであった。

2005/10/07

白線流し

仕事から帰って夕食をとりながら10時からの世界美術館紀行を見終えて新聞のテレビ欄を見たら、なんと、「白線流し」の最終章をやっていることを知る。残りほんの30分くらいしか見ることができず残念。でも、その30分だけでも見ることができて良かったと思える、そんな内容だった。

大人になるにつれ、知らず知らずのうちに、あるいは気づきながらも周囲に流され、傷つき、「あの頃のひたむきさ」から遠ざかっていく。10代の頃に夢見ていたことと現実のギャップに失望したり、開き直ったり。太陽にはなれない自分がそこにいる。

でも、広い宇宙の片隅にぼんやり見えている星にこそ尊さがあるのだ。

離れていても「同じものを見ていられること」を幸せと感じることができることだってある。

人は遠回りしても、必ず成長するのだということ、純粋な気持ちで結ばれた友情は朽ちることはないということ、たくさんのことを残したドラマである。

2005/10/02

pot

その朝私は、ホテルから空港に向かうリムジンバスに乗っていた。12月だったか3月だったか、多分12月だったと思う。その日の香港はどんより曇っていて、今にも雨が降り出しそうな肌寒い日だったことを覚えている。旅の終わりに決まってやってくる充実感のあとの軽い悲壮感に拍車をかけるような天気。でも、晴天よりマシかもしれない。この感覚は旅の始まりですでに予感しているから、いつもうまくやり過ごすことはできるけれど、いっそうのこと冷たい雨でも降ってくれたほうが旅への諦めがつくというものだ。

バスは空港に着くまでにいくつかの停留所に停まるようだ。山の斜面に切立つ香港特有の高層アパートメント群をぼーっと眺めながら、これからやらなければならない空港でのいくつかの煩わしい手続きのことを考えていた。

バスが停留所のひとつとなっているらしいアパートメント群に停まったとき、白人やら黒人のお揃いの紺色のスーツ(制服)姿の男女が10人ほど乗り込んできた。一様に小ぶりのサムソナイトのキャリングケースを携えていて、彼らが空港関係者だと分かる。香港はある航空会社の拠点となっている都市だから、恐らくそこのパイロットやフライトアテンダントだろう。きっとあのアパートメントの一部は、航空会社の宿泊施設として借り上げられているに違いない。空港に程近い、香港の中心地からは離れた寂しい場所である。バスに乗り込むと、慣れた感じでキャリングケースを空いている座席に積み上げていた。席に座ると、携帯で電話する人、隣の席の人とおしゃべりする人、黙って窓の外を見ている人と様々だ。

この人たちも今日、どこかの国に向けて発つのかな。でも彼らにとってはこれは日常なのだ。

誰にでも日常があり、非日常がある。(変化のない、時間にも追われないでいる国の人々は別として。)私は自分の置かれたそのときの状況を、たまたまそこに居合わせた人のそれが逆であるとき、とてもドキドキする。特に自分の非日常と他人の日常が交差するときに。

乗り込んできた空港関係者のなかで、黒人の女性がステンレスの小ぶりのポットを膝の上に置いて座席に座っていた。持ち歩くようなタイプのポットではなく、日本の急須のような形のものだったから、とても不思議な感じがした。通路を挟んで隣の座席で。なぜかその光景が今でも脳裏に焼きついている。私はそのポットを見つめ想像を巡らせた。中身はコーヒーなのか紅茶なのか。彼女はいつも暖かい飲み物をあんなふうにして職場に着いたら飲もうと用意していくのだろうか。それとも今朝はバスまでの時間に余裕がなくてアパートで飲めずに持ってきたのだろうか。これから長いフライトが待っているであろう。なのにポットにお茶を用意して、しかも急須のようなポットをバッグにも入れずむき出しで持っているその人のチャーミングさが、なぜかあの朝の記憶として私の深いところに刻まれている。

制服の一団は、空港に隣接する航空会社のビルのところで一斉に降りていった。

アカシア

辻 仁成 著   文藝春秋

短編集。作家は単に文章が書けるだけではなれない。アイデアが必要だ。そういう意味で辻仁成という人は意表をつくようなモチーフを作品に仕上げていると思う。特に余韻があるのは最後の「世界で一番遠くに見えるもの」だ。人の気持ちというものは「こうである」と断定できないものだ。さっきまで「別れたい」と思っていた相手をいまは「尊く」思えたり。一人の人間のなかに、相対する感情が同時に存在することをうまく表現している。

短編のなかで「歌どろぼう」だけは入り込めなかった。

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