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2005/11/20

Rose

  その人は平日の夕刻、決まって通りに面した映画館のボックスオフィスで静かに本を読んでいた。僕が留学していた1980年代のニューヨークのユニオン・スクエア近くの小さな映画館の小さなボックスオフィスで。
 当時は今ほど日本人観光客が押し寄せては来なかったし、まだインターネットも携帯電話も普及する少し前だったから、なんというか、ニューヨーク独自の文化を、そこに行かなければ味わえないような、そんな時代の最後の数年間だった。僕はNYUの大学院で勉強していた。そして生活費を稼ぐために、平日の夜はミッドタウンの寿司レストランでウエイター兼皿洗いとして数時間働いていた。
 週のうち5日間、決まってユニオン・スクエア駅から地下鉄に乗り、仕事先に向かった。その地下鉄の駅と当時住んでいたアパートメントの間にあったローズシアターだったかローズヴィレッジシアターだったか、今ではその劇場名を正確に思い出すことはできないが、毎晩、そこのボックスオフィスに座っている女性を、いつしか僕は劇場名にちなんで“ローズ”と心の中で呼んでいた。
 初めて彼女に気づいたのは、11月、いや12月初めの街中が急にクリスマスのイルミネーションで華やぎ始めた季節だったように思う。僕はその日、講義の課題をやっつけるために、朝からずっと大学の図書館で過ごしていた。気がつくと仕事の時間が迫っており、足早に図書館を後にして、ユニオン・スクエア駅に向かって歩いた。その頃の僕は、講義についていくために寝る間も惜しんで予習、復習に励み、一日3、4時間程度ではあったがアルバイトもほとんど休むことがなかった。そんなことから友達を作る余裕はなく、仕事先の客としてやってくる日本人ビジネスマンたちとのわずかな交流が唯一の人との接点だった。だからその日、地下鉄に乗る前に空腹を満たそうと寄ったコーヒーショップからふと道の反対側に目をやった先にあった映画館のガラス張りのボックスオフィスに、ひとり頬杖をついて本を読んでいる彼女が、なんとなく自分と同じように孤独に見え、以後僕の中で存在感を増したのだと思う。夕闇にぼんやり明るく浮かび上がるそのボックスオフィスは、その頃の僕に少しだけ安堵感を与えてくれる、そんなスポットに思えた。
 ひとたび上映が始まれば、チケットを買い求める客はおさまり、劇場前は静まり返るから、恐らくローズのほっとする時間だったはずだ。ちょうどそんな時間帯に僕は通りかかるのだった。毎晩、彼女の横顔を確認してから地下鉄で仕事に向かいながら、僕は彼女についていろんな想いを巡らせた。いま読んでいる本について、住んでいる場所について、出身地について、恋人はいるのだろうか・・・。別に彼女に恋をしていたわけではない。ただ、ひとり緊張と不安の渦巻くニューヨークに暮らし、「変わらない何か」「いつもそこにある何か」が僕には必要で、それがボックスオフィスのローズだったのだと思う。
 たった一度だけ、街で彼女を見かけたことがある。大雪の降った翌日で、日曜日の午後、論文のための参考文献を探しにストランド・ブックストアへ行ったときのことだ。ストランドはアパートの数ブロック先だったから、雪の景色を楽しみながら歩くにはちょうどよい距離にあった。いつもは大変混み合う書店で、時には身動きがとれないこともあるのに、その日の店内は雪のせいでか人気はまばらだった。店内に入り、ちょっとベストセラーコーナーを眺めてから、目的の専門書の棚へと進んだ。すると、美術書のコーナーの書棚に立てかけられたハシゴに軽く腰掛け、彼女は画集を開いていた。僕は思わず「ローズ・・」と言いそうになって、抑える。あるいは、彼女は同じNYUの学生だったのかもしれないと、ずいぶん後になって考えたりした。しかし、何万人もの学生が行き来するいくつものビル群で、たとえ彼女とすれ違ったとしても、きっと僕は気づかなかっただろう。ガラガラの古びた書店だったからその存在に気づいたのだ。それくらいローズは質素な、そして控えめな雰囲気の女性だった。ジーンズにグレーのハイネックのセーター、その上に体をすっぽり覆うほどの濃紺のダッフルコートがその日の彼女の服装だった。とっても学生らしい好感のもてるスタイルだった。
 それから2度目の冬が訪れる頃には、あのボックスオフィスからローズの姿はなくなり、いつしか年配の女性に代わっていた。ローズがそこからいなくなったのが、その年の夏だったのか、秋だったのか、あるいは僕が気づいた冬だったのかはわからない。論文執筆に専念するため、僕は数ヶ月間、仕事をストップしていたから、その映画館の前を通ることもなくなりローズのことも記憶の片隅に薄れ去っていったから。
 あれから20年が経ち、東京に暮らす僕のもとに、定期的にストランド・ブックストアからeメールでニュースレターが送られてくる。そのたびに当時のニューヨークのことを、とりわけローズのいたあのボックスオフィスを懐かしく思うのである。

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