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2006/04/27

mail from Mr.A

今日、届いたある方からのメールが、私をhappyにしてくれた。

ここに記録しておきたい。

私も講和を聞きたかったと思う。感銘を受けた映画について、その良さをわかってくださっただけでも嬉しいのに、それをその人の感性でまた別の人に伝えていく素晴らしさ。この作品については、もう一人、歌にした人もいて、私はとてもhappy。

それにしても、ラストシーンを思い出しただけで、ジーンとくると同時に、勇気がわいてくる。

Mr.A からのメール------------------------------------

現在、青少年育成委員を委嘱されそれなりに
地域に貢献しております。
4月22日、高校生を対象とした講話を依頼さ
れ2時間担当してきました。
特に、石原さんに報告したいのは、01年10月
に、石原さんから贈呈された「いまを生きる」の
ビデオテープです。
このテープは約2時間ものなので1時間ものに
編集、ラストシーンを強調して講話に利用しま
たところ、参加者から高い評価を得ました。
これは私の成果ではなく、石原さんの成果だと
感謝を込めて御礼申し上げます。
「有難う」

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こちらこそ、「ありがとうございます」 

2006/04/15

short story (4)

つづき

律子と同棲していた頃、彼女は熱を出して食欲がないとき、よく白いご飯にキムチが食べたい、とわがままを言った。そのたびに僕はエンパイアステイトビルの南側にひっそりと存在するコリアンタウンにバスで向かい、昼となく夜となくキムチを買いに行った。彼女もまた、美味しいチーズを見つけたから、ついでにワインも買ってきたから、などと言って、そんな夜は手間をかけて食事を準備してくれたりした。そんな些細な出来事が、今となっては陽だまりのような、でも切ない思い出となっていることに気づく。

その頃は、二人ともお互いに甘えることも、尽くすことも、それは自然に、当然のように行っていた。

アパートの前にたどり着いたとき、なんとなく彼女はもうここには住んでいないことを予感する。小さく古いながらも、いちおうドアマンがいるアパート。ホールに入ると、見知らぬドアマンが新聞を読んでいた。以前自分はここに住んでいたこと、Ritsuko Itoは住んでいるか知りたいということを伝えた。

「2ヶ月前からここに勤務しているけれど、Itoという姓の住人はここにはいません」

失望感はなかった。分かっていたことだから。それから5番街を北へとあてもなく歩き始めた。今夜はニューヨーク勤務だったころの同僚リックにでも連絡をとってBarで一杯飲もうかなどと思案しながら。先ほどまで晴れていた空がいつのまにか曇ったかと思うと今度は雪が舞い始めた。

つづく

2006/04/10

4/9の日経新聞

4月9日(日)の日本経済新聞40面に「アメリカの孤独と西部」と題した川本三郎氏が書いた「ブロークバック・マウンテン」に関するコラムがあり、これがとてもいい視点で書かれている。この映画の背景となっている“現代のたそがれゆく西部”について、うまく語られている。多くのメディアなどでは、とかく競争社会としてのアメリカのイメージばかりが目立ってしまうが、実際は、アメリカには、競争社会からは外れた“静かな慎ましい生活への郷愁”があることを伝えている映画だと書かれていて、説得力のある文章だ。

「ブロークバック・マウンテン」に続いて、「ファイアーウォール」と「プロデューサーズ」と、なんと3週連続で映画館に足を運んだ。「ファイアーウォール」は見なくてもよかったかな、とも思う。「プロデューサーズ」はマシュー・ブロデリックが好きだし、出てきた俳優全員が最高に個性的で楽しい。理屈抜きで楽しめた。でも、「ブロークバック・マウンテン」が一番。今年、これを越える映画を見るだろうか。

2006/04/09

short story (3)

 11丁目、5番街と6番街の間にあるアパートに僕らはかつて住んでいた。お互いに仕事は忙しかったけれど、戻るべき場所があったから、この街をいつの間にか好きになったし、怖くなかった。ただ、僕はこの国の、あまりにも効率性ばかりを求めるシステムと、自己主張の壁に疲れ気味であった。一方、律子はそういうサバサバとしたやり方を好んだ。だから、何かにつけてよく言い合いもした。
「達哉の考えは日本的ね」
律子の一言がよく僕の心を逆撫でした。
日常がぎくしゃくし出したと思ったときは、すでに元に戻れないところまで来てしまっているものだ。僕たちがそうだった。終わりが近づいてきていることを、二人とも悟っていた。決定的な出来事。それは僕が東京支社に転勤になるという、いつか来るべきときが来てしまたそのことだった。彼女が一緒についてきてくれる可能性はあまりにも低かったけれど、実際、彼女にその意思がないことを知り、呆然とした。彼女はできればこの街で新たな仕事を探してほしいと思っていることを僕に告白することになる。無理だった。僕にはプライドがあったし、好きになった街とはいえ、ニューヨークは勤務地のひとつに他ならなかったから。そして、5年前、僕たちは別れた。
 11丁目の曲がり角には5年前と変わらない佇まいのフレンチカフェがあった。角を曲がって律子と2年間住んだ懐かしいブラウンストーンのアパート前にさしかかった。

つづく

2006/04/02

short story (2)

つづき

 12月22日。お昼近くに目覚めてホテル近くのカフェへ行った。6番街に面した窓際の席に座り、数日間の行動予定を考える。ここヴィレッジは、高層ビル群によって空が狭いミッドタウンに比べると、建物の高さが規制されているので、冬の澄んだ青空が広く見えている。熱いスープを胃に流し込み、まず僕が向かった先はあの日まで律子と過ごしたアパートである。前日、ホテルにチェックインしてからすぐに向かうこともできたけれど、なぜかできなかった。怖かったのだと思う。ただ、彼女がまだそこに住んでいるのかいないのか、それを確かめたかった。もしも窓際に彼女の姿を見ることができたなら、もう一度やり直したい、その言葉を伝えてみようか、などとも考えていた。しかし、実際にはどんな行動を自分がとるのか、僕にはぼんやり分かっていたような気がする。
 律子とはメトロポリタン美術館のルーフガーデンで知り合った。僕はニューヨークに転勤になったとき、しばらくの間、週末になるとルーフガーデンから見える景色を楽しみにこの美術館へ足を運んでいた。そこは世界でも有数の美術館のうちのひとつにありながら、あまり知られていない場所で、館内がいくら混雑していてもルーフガーデンに登ってくる観光客は少なく、セントラルパークが見渡せる僕のお気に入りのスポットとなった。そして、ルーフガーデンにやって来ていた律子を3週続けて見かけたのは、公園が紅葉で黄色と赤に染まった10月末だったと思う。毎回彼女もひとりで来ていたから、声をかけてみようと思った。肩ほどまでに伸びた黒髪を無造作に一本に結わえて、チノパンに黒のセーター姿で本を読んでいた。それが日本語の本のようだったので彼女が日本人だと確信し、思い切って話しかけることにしたのだ。すると、意外にも律子は僕が勤務しているオフィスが入ったビルの1ブロック先にあるビルで働いていることを知り、以来ランチの時間帯が合うときは、近くのデリで待ち合わせして一緒に昼の休み時間を過ごしたりした。週末にはすでにニューヨークに住み始めて2年経つ律子にいろんなところを案内してもらった。中でも忘れられない場所は、マンハッタンの北部にあるクロイスターズというメトロポリタン美術館の分館である。中世の修道院を思わせる佇まいは、それこそここがマンハッタンであることを忘れさせる力を放っていた。コレクションのなかで僕たちが心を奪われたのは、高さ60センチほどの十字架だった。“世に比類なき”とうたわれるベリ・セント・エドマンズ十字架で、旧約聖書、新約聖書のいくつかの光景がそのありとあらゆる面に細密にに掘り込まれている。
 そんな楽しい週末の過ごし方を、僕はかつて二人で暮らしたアパートに向かいながら懐かしく思い出していた。

つづく

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