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2007/09/30

non title

急に寒くなり、今日は11月下旬の気温という。毛布1枚では寒いのでもう1枚引っ張り出した。雨降りの日は読書。本棚から1冊取って、もう一度読み返した司馬遼太郎の「ニューヨーク散歩」に、以前ここに書いたコロンビア大学の角田先生についての記載があった。最初に読んだときには、気にも留めてなかったようだ。キーン氏の新聞記事で、角田先生のことを知った後にこの本に再び触れ、ちょっと感激している。

以前書いた角田先生についてのこと↓

http://megumi1966.cocolog-nifty.com/megumi/2007/08/non_title.html

「ニューヨーク散歩」に書かれていた角田先生についての記載(要約)↓

1877年生まれ。大戦中もアメリカで生き、八十余歳までコロンビア大学の教壇に立つ。この大学の日本学の祖。この人物についてはほとんど参考文献がない。キーン氏の記憶に頼ると、存在そのものが古典的日本人のエキスのような人でありながら、日本に住むことなく、ニューヨークのような超現代的な大都市に住み続けた。そのくせ、願望として、老後は、朝鮮の金剛山のふもととか、英国の田舎に住みたいと洩らしていた。すばらしい学殖と創造心をもちながら、著作を持つことに無頓着だった。理由は「私はまだ生徒ですから」というのが口癖だった。このため母国では無名だった。群馬県の出で、旧制前橋中学校(前橋高校)出身。明治の東京専門学校(早稲田大学の前身)出身。在学中、坪内逍遥の講義をきいた。一時、高野山大学で教えていた。明治42年仏教伝道学校の招待でハワイに渡った。その後ニューヨークに来て大正7年(1918)からコロンビア大学で講義をきいた。そのとき41歳。デューイの講義もきいた。一念発起し、いったん帰国し、コロンビア大学に日本学を成立させるために寄付金や書物をあつめた。昭和3年(1928)からコロンビア大学で、日本の思想史、歴史、古典文学を教えはじめた。ハドソン川に架かるジョージ・ワシントン橋のほとりにひとり住んでいた。太平洋戦争の開戦とともに抑留され、、ニ、三ヵ月後に裁判を受けた。裁判官の「あなたは、あの橋を爆破するつもりだったのか、それともそうではなかったのか」という愚問に、長年住まわせてくれたアメリカへの義理を感じている旨のことを語った。またアメリカへの責任についても語った。裁判官はそのふしぎなことばと誠意にうたれ、最後に「あなたは詩人か」と問うたという。その後、継続して教壇に立ち、やがて死を予感し、日本に帰るべく機上の人となった。飛行機が一旦ハワイについたときは、すでに心臓が停止していた。

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司馬遼太郎も、角田先生という人物に大変惹かれたようで、そのことからも、角田柳作という人物が多くの人の関心を呼ぶに値する人物だということがよくわかる。角田先生が群馬県出身だと知って、嬉しい気持ちになった。

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